1.
論文 |
矢島, 忠夫
|
|||||
2.
論文 |
矢島, 忠夫 ; ヤジマ, タダオ ; Yajima, Tadao
概要:
有ることは,自己自身と同一することである。成ることは,自己自身と差異することである。成ることは,別に成ること,成ることの成ることとして,それ自身において,自己自身の反復,自己自身の累乗,自己自身の肯定である。成ることは,自己自身で後れること
…
として,それ自身において,自己に成ること,自己を強めること,自己を超えることである。
続きを見る
|
|||||
3.
論文 |
矢島, 忠夫
概要:
『正法眼蔵』における「前後際断せり」を、「前の時間と後の時間の実体的な区別が意味を失っている」と理解する試みである。
|
|||||
4.
論文 |
矢島, 忠夫 ; ヤジマ, タダオ ; Yajima, Tadao
概要:
この論文では、漢訳『妙法蓮華経』のサンスクリット原典である『サッダルマ・プンダリ-カ』(Saddhamapupdarika)(『正しい白蓮の教え』)において「ダルマ・スヴァバーヴァ」(dhama-svabh岳va)(dhamaの本質)と表現
…
されていることがらに関して、それを、「諸仏が教える修行の法の本質」ではなく「存在するものたちの真実の在り方」と理解する解釈が見られるが、それは、漢訳『妙法蓮華経』において「諸法実相」と表現されることがら関する独自の解釈(おそらくは「天台教学」的と言われる解釈)があらかじめその外部に前提され、そのために、この解釈がひるがえってサンスクリット原文の`dhama-svabhava'の解釈にまでひそかに反響していることによるのではないか、という推定が提示される。
続きを見る
|
|||||
5.
論文 |
矢島, 忠夫
概要:
仏教,特に禅宗に関しては,非論理性をもってその本質とし,その言語的表現の理解の困難は医想的体験の深化によってのみ超えられるとする考えがある。本考は,『正法眼蔵』の基底に,一つの「道理」,すなわち,「修することと証することは,いずれも同じ一つ
…
の出来事の異なるアスペクト(錯々)にすぎないがゆえに,必然的に互いに他に転じる(錯転する)その威力によってのみ,みずからのリアリティを実証しうる」ということを「道理」とする理解が見出されることを示す。
続きを見る
|
|||||
6.
論文 |
矢島, 忠夫 ; ヤジマ, タダオ ; Yajima, Tadao
概要:
本考は、『正法眼蔵』において、「経歴する時間」が「飛去する時間」に抗してリアリティーをもって立ち現れることを可能にする、行為のあり方が追求されていることを示す。これは、同じ仕方で行為するものは、同じ時間、同じ世界を生きるということによって可
…
能となる。また、「即時の因果」が、どのようにすれば「時を隔てた因果」と両立しうるのか、その仕方を明らかにする。
続きを見る
|
|||||
7.
論文 |
矢島, 忠夫
概要:
本考では、改作された12巻本『正法眼蔵』の諸巻を、対応する75巻本の諸巻と照合し、この「改作」の意味の一端をあきらかにする。 関連して、松本史朗氏の理解を検討する。それは、「如来蔵思想」を「基体説」と規定し、前期道元の『正法眼蔵』を「仏性
…
顕在論」の立場からする「仏性内在論」の批判と捉える。また、仏性顕在論の立場から「仏性修現論」を説くことの論理的困難を指摘し、後期道元の『正法眼蔵』は、基体説を否定する「縁起説」によって、前期の仏性顕在論を批判するに至ったとする。 だが、後期『正法眼蔵』における「深信因果」「三世因果」「業報」の強調も、「十二支縁起」の意味での「縁起説」に直結するとも見えず、なお、前期「仏性修現論」の延長線上にあることも考えられる。
続きを見る
|
|||||
8.
論文 |
矢島, 忠夫
概要:
本考は、『正法眼蔵』を精読する。論理語に留意し、道元がどのように思考しているのか、その筋道がたどれるように表現することを目指す。修正可能な素案を提示することが課題である。
|
|||||
9.
論文 |
矢島, 忠夫
概要:
本考は、『正法眼蔵』を精読する。論理語に留意し、道元がどのように思考しているのか、その流れが理解出来るように表現することを目指す。修正可能な素案を提示することが課題である。
|
|||||
10.
論文 |
矢島, 忠夫
概要:
本考は、『正法眼蔵』を精読する。とりわけ、論理語に留意し、道元がどのように思考していたのか、その流れが理解できるように表現することを目指す。修正可能な素案を提示することが課題である。
|