1.
論文 |
安野, 眞幸
概要:
中世の富士大宮は次の三者からなっていた。①宗教上の中心「富士浅間神社」,②社会・経済上の中心「駿州中道往還」の宿場町「神田宿」とその市場「神田市場」,③政治・軍事上の中心「大宮城」。「神田市場」や「神田橋開」では今川氏の任命した小領主たちが
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徴税を請け負っていた。大宮司の富士氏は当時,国人領主としても発展し「大宮城」の城代をも兼ねていた。今川氏の発布した「富士大宮楽市令」は,市場からの小領主の排除と「諸役」の停止を内容としており,富士氏側が今川氏に譲歩を迫り,勝ち取ったものであった。
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2.
論文 |
安野, 眞幸
概要:
本稿は、家督を継いだばかりの信長が、知多郡・篠島の商人を保護し、彼らに対し往来の自由を認めた折紙の分析である。本稿での私の目的は、当文書発給の歴史的な場面を復元することにあるOここで私は、先学が暖味にしてきた「当所守山」を、当時の信長の勢力
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圏「那吉野・守山間」とし、宛名の「大森平右衛門尉」を守山・大森にあった宿・関と関わった人物で、この折紙により、知多郡・篠島の商人の商人司に任命されたとの考えを提出した。当時交通の自由を妨げていたものは、通説では経済関とされているが、この文書の分析によって明らかになったことは、質取りや喧嘩などで人身の自由が脅かされていたことが大きかったとなろう。
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3.
論文 |
安野, 眞幸
概要:
天文十八年に熱田人力村に宛てて出された五ヵ条からなる信長制札の分析である。当時の都市熱田の姿の復元や、関連する幾つかの文書との比較の中で、この制札が楽市令の先駆であり、都市熱田はこの制札を媒介として楽市に変身したことを明らかにした。
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4.
論文 |
安野, 眞幸
概要:
永禄六年に瀬戸に宛てて出された信長制札について、先学はこれを「瀬戸物商人の国内通行権や瀬戸物売買の保護を記したもの」としてきた。しかし本稿で明らかにしたように、この制札では、瀬戸物市-の塩・塩相物の出入りをも問題としており、いわば「新儀商人
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」である「塩・塩相物商人」に対して、瀬戸物取引の公認を内容としていたのである。
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5.
論文 |
安野, 眞幸
概要:
本稿は元亀二年に信長が「符中府宮」に宛てて出した定書を分析したものである。「符中府宮の市場」は六斎市で、この法令全体は限りなく楽市令に近いものである。市場は関所の機能も備えており、この朱印状発布の目的は一向一揆への対抗であった。
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6.
論文 |
安野, 眞幸
概要:
安土楽市令の第四条「伝馬免許事」は第三条の「普請免除」と並び、伝馬役の免除を命じたものと理解するのが通説である。本稿はこの通説に異論を唱え、むしろ信長が安土の町に伝馬制度の創設を許可したものであると論じた。中世近江の「保内商人」の座特権が解
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体し、信長による新体制がここで目指されたのである。
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7.
論文 |
安野, 眞幸
概要:
本稿は永禄七年に尾張国「二の宮」に宛てて出された定書に関する考察である。この文書の発給者は信長ではなく、彼と対立していた従兄弟の織田信清であろう。この文書の特色は第二条にあり、第二条の分析が大切なのである。ここで云う「借銭・借米」とは、未進
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年貢を中心とした領主貸付米・銭のことで、この文書の背景には二の宮の住民側と信清との交渉があり、住民側は反銭・棟別銭の納入を約束する見返りに「新儀諸役・家並」の免除や「借銭・借米」の破棄を認めさせたのである。
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8.
論文 |
安野, 眞幸
概要:
本稿は天正五年六月に織田信長が安土山下町に宛てて出した定書十三ヵ条に付いての考察である。安土を理解するには、「景清道」と八風街道から延びた「浄厳院道」と、両者の交点にある港町の「常楽寺」の三者を知る必要がある。常楽寺は「沙沙貴神社」の門前町
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ならぬ(門裏町)だった。この定書の実質的な受取手で、自治都市安土山下町の自治の担い手は「沙沙貴神社」の神官で、この神社の長い伝統を背負って立つ木村次郎左衛門尉だった。この法令中には「兵工未分離」な木村氏の「奉公人」「給人」が同時に都市住民身分として登場し、「惣村」から「惣町」への過渡期の在り方を示している。
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9.
論文 |
安野, 眞幸
概要:
加納の楽市場は御園町にあったとするのが現在の通説である。しかし私はここで楽市場は円徳寺にあり、織田氏と斎藤氏の対立の中で中立を保ってきた円徳寺の勢力を信長側に組織することを目的とした密約に、この楽市令は基づいているとした。
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10.
論文 |
安野, 眞幸
概要:
元亀三年の金森再蜂起の後、信長は金森の地に楽市令を出した。本稿はこの金森楽市令の分析である。金森は坂本・志那・守山をつないで、京都と東山道を結ぶ志那街道上にあり、この街道は当時の幹線道路だった。このことが原因で、金森は一向一揆の拠点となった
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。楽市令の第一条はこれまであった金森の寺内町特権を再確認したものであり、第二条は宿駅都市金森の発展を図ったもの、第三条は弓矢徳政である。
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