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論文

論文
長谷川, 成一
出版情報: 弘前大学大学院地域社会研究科年報.  pp.1-63,  2009-12-28.  弘前大学大学院地域社会研究科
URL: http://hdl.handle.net/10129/2426
概要: 本稿では、近世津軽領を素材として、新たな絵図の解析と同藩の森林台帳・沢絵図の分析から、近世津軽領の林政・森林経営を探る上で基本的な研究素材となる領内の植生を復元し、十七世紀から十八世紀にかけての約百年間にわたる植生景観の変容について考えてみ たい。 「津軽国図」によって復元した十七世紀末の領内植生から、津軽領では、斫しゃくばつ伐が比較的やりやすく、岩木川などを活用した、材木の大消費地である都市や港湾へ運搬の利便性の高い山地に開発の集中する傾向があった、と言えよう。寛政期津軽領の植生復元図によると、十八世紀後半から末にかけての津軽領における植生景観は、十七世紀末の「津軽国図」に見られたそれと比較して、大きな変化は認められない。ただし、いくつかの地点で明らかに檜・杉などの森林が消滅した形跡はあり、開発の手は次第に奥山へ延伸していったと推定される。津軽半島の陸奥湾に面した山々や八甲田の南部境、碇ヶ関の秋田境など、市場において高価格での販売が可能な、檜・杉など高質の針葉樹の伐採と搬出の可能な限定された地域にあって、過伐→荒廃→休山のサイクルを繰り返す状況にあったようだ。 弘前藩では、天明大飢饉を契機として、領内にかつてないほどの広範な御おすくいやま救山の設定がなされた。御救山が森林資源の枯渇を誘発したことから、十八世紀末に至って、弘前藩には、領内山林に大幅な手を加える財政的な余力はすでに尽きており、森林景観を変更するような政策を打ち出せなかったと考えられる。秋田藩のように森林資源の枯渇を防ぐために、藩が主体となって植林を実施した形跡は、弘前藩には認められない。弘前藩では、藩庁の手による植林によって山勢回復を図ることなく、民衆に植林を促す仕立山の制や天然更新による森林資源の回復を待つ方策だったことから、十七世紀末から十八世紀末にいたる約百年間の植生には、大きな変容は認められなかったのである。 続きを見る
2.

論文

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長谷川, 成一
出版情報: 弘前大学大学院地域社会研究科年報.  pp.1-33,  2010-12-28.  弘前大学大学院地域社会研究科
URL: http://hdl.handle.net/10129/4339
概要: 一九九三年、鹿児島県の屋久島とともに世界自然遺産に登録された白神山地は、秋田・青森両県にまたがるブナの原生林、斧を知らない森林景観として多くの人々が訪れ、原初的かつ豊かな自然を色濃く残す山地として広く知られている。 本稿は、江戸時代の白神山 地にあって、同山地の森林資源がどのように活用され、資源保護はいかなる形でなされたのか、その歴史を解明することを目的としている。近世津軽領において、流木(ながしぎ)と称された薪材は、白神山地西部の海岸地帯では製塩用の燃料等に、東部の目屋野沢(めやのざわ)においては近世都市弘前の日常燃料として、同山地から岩木川などの河川を経由して供給された。十八世紀前半、津軽領において流木が行われた山沢は三六二に及び、当時にあっても流木山の伐り尽くしという事態が次第に進行していたのである。 寛政七年(一七九五)、弘前藩によって目屋野沢は弘前に流木を供給する備山(そなえやま)として公的に位置づけられ、薪材の伐採は「十ヵ年廻伐」という輪伐のルールが規定され、森林資源の保護が打ち出された。しかし、毎年一五万本という流木量を確保するのは、当時の山役人にとっても困難なことであった。目屋野沢における白神山地の森林資源は、流木のほかに尾太(おっぷ)銅鉛山などの製錬に用いられる、鉱業用燃料としても不可欠であった。 十八世紀末にいたって、尾太鉱山は稼行を停止したが、その後も流木の生産は継続されたことから、伐り出す流木山は次第に奥山へと移行し、森林資源の保護を目的とした輪伐のルールは名目となり資源の枯渇は一層進むことになった。さらに、津軽領流木山の保護に欠落していたのは、伐採後は植林をせずに、資源の回復を天然更新に任せてしまったことであった。したがって流木の調達は藩が構想したようには展開せず、藩領全体の森林資源の枯渇が進む中で、保護策も空しく目屋野沢の森林資源の枯渇は進行したと考えられる。 続きを見る