1.
論文 |
白石, 睦弥
概要:
岩木山は青森県津軽地域に聳そびえる標高一六二五メートルの独立峰である。火山としても知られているが、近世期を通じて火山活動は見られるものの、大規模な被害や死者をともなう火山性災害を引き起こしていない。 岩木山の活動の中に硫い おうやま黄山出
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火というものがある。硫黄山は岩木山南西の嶺、湯治場として知られる嶽だけ温泉の上部にあり、岩木山を描いた絵図などにその位置を確認できる。硫黄山出火は火山性の水蒸気爆発などによって露出した硫黄が延焼するというものであったが、実際的に城下町や在方の、人が居住している地域にほとんど影響は無い。それにもかかわらず弘前藩はこの出火に対応し、領民は動揺を見せながらもその消火に自主的に加わった。この様子は「金木屋日記」に記されている。硫黄山出火の特徴は、他の火山性災害と異なり、領民の尽力と藩主の威光によってコントロールできると考えられていたことである。岩木山が壊滅的な災害を引き起こさず、鎮火に至ったことは、弘前藩の権威を維持する上で大いに役立ったと考えられる。 また、岩木山に対する弘前藩の信仰は代々厚いものがあり、それは、当時下おりいのみや居宮と呼ばれた岩木山神社と別当寺である百ひゃくたくじ沢寺の維持管理といった面にもよくあらわれている。四代藩主信政は自ら神式で岩木山に葬られ、このことも岩木山信仰と弘前藩の結びつきを強めた。現在も岩木山信仰圏が津軽領と重複しており、近世期から連綿とその信仰が続いていたことが理解できる。このような信仰の対象である岩木山が青く燃える様は、弘前城下からも確認でき、領民には動揺が広がった。 このような岩木山の変事をはじめとし、地震などの災害、蝦え ぞち夷地出兵などの国家的危機に際して、下居宮や百沢寺で行われた祈祷は、弘前藩と岩木山が内外の危機から藩領すなわち藩国家を守ることを明示し、それは藩体制の強化にも繋がった。
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2.
論文 |
長谷川, 成一
概要:
一九九三年、鹿児島県の屋久島とともに世界自然遺産に登録された白神山地は、秋田・青森両県にまたがるブナの原生林、斧を知らない森林景観として多くの人々が訪れ、原初的かつ豊かな自然を色濃く残す山地として広く知られている。 本稿は、江戸時代の白神山
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地にあって、同山地の森林資源がどのように活用され、資源保護はいかなる形でなされたのか、その歴史を解明することを目的としている。近世津軽領において、流木(ながしぎ)と称された薪材は、白神山地西部の海岸地帯では製塩用の燃料等に、東部の目屋野沢(めやのざわ)においては近世都市弘前の日常燃料として、同山地から岩木川などの河川を経由して供給された。十八世紀前半、津軽領において流木が行われた山沢は三六二に及び、当時にあっても流木山の伐り尽くしという事態が次第に進行していたのである。 寛政七年(一七九五)、弘前藩によって目屋野沢は弘前に流木を供給する備山(そなえやま)として公的に位置づけられ、薪材の伐採は「十ヵ年廻伐」という輪伐のルールが規定され、森林資源の保護が打ち出された。しかし、毎年一五万本という流木量を確保するのは、当時の山役人にとっても困難なことであった。目屋野沢における白神山地の森林資源は、流木のほかに尾太(おっぷ)銅鉛山などの製錬に用いられる、鉱業用燃料としても不可欠であった。 十八世紀末にいたって、尾太鉱山は稼行を停止したが、その後も流木の生産は継続されたことから、伐り出す流木山は次第に奥山へと移行し、森林資源の保護を目的とした輪伐のルールは名目となり資源の枯渇は一層進むことになった。さらに、津軽領流木山の保護に欠落していたのは、伐採後は植林をせずに、資源の回復を天然更新に任せてしまったことであった。したがって流木の調達は藩が構想したようには展開せず、藩領全体の森林資源の枯渇が進む中で、保護策も空しく目屋野沢の森林資源の枯渇は進行したと考えられる。
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3.
論文 |
市毛, 幹幸
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4.
論文 |
浪川, 健治
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5.
論文 |
工藤, 大輔
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6.
論文 |
相馬, 英生
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7.
論文 |
武内, 恵美子
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8.
論文 |
篠村, 正雄
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9.
論文 |
門脇, 朋裕
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10.
論文 |
長谷川, 成一
概要:
科学研究費補助金研究成果報告書 ; 研究種目:基盤研究(C) ; 研究期間:2007-2008 ; 課題番号:19520553
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